ご来庵あれ!
今日、徳島の小川さんから、阿波の歴史小説「捨ててこそ-山頭火遍路紀行」の本が寄贈された。
一草庵図書として、大切に保存します。
なかなか読み応えがあったので、紹介しておきます。
よく勉強されています。
秋晴れひよいと四国へ渡つて来た
漂泊の自由律俳人種田山頭火(本名・正一)は、気軽に四国を訪れたと、冒頭の句を遍路日記に
綴っているが、本当はそうではない。酒のせいで心臓が弱っているので、あと一年余りの命だか
ら、したいことをして好きなように生きなさいと、広島の医師から宣告されていた。酒の業である。
前に巡った四国巡礼は、母と弟の菩提を弔うためだったが、今回は自らの死に場所を求めての
旅である。あの芭蕉や西行がそうであったように、日々を旅の梄かとし、旅に死ぬことを本望とし
た。いわば捨身懸命の旅だった。
で、始まる。
来松70周年記念・松山高浜の山頭火句碑 |
実は、山頭火の日記は、2冊行方不明になっている。
昭和14年9月27日~10月31日(四国遍路日記)
昭和14年12月17日~昭和15年2月10日(松山日記其一)
よって、山頭火の四国遍路参詣の道は、山頭火の書簡及び友人の記録に頼るしかない。
この物語は、10月29日3番札所・金泉寺の木賃遍路宿の場面がクライマックスのようだ。
NKHドラマ「何でこんまに淋しい風ふく」のフランキー堺のような山頭火を想像しながら読む。
-わしもこの頃、いっぱしの世間師になってきたなあー
飴売り夫婦に頼まれて、息子へのハガキを書いてやる。
お礼の護摩水(酒)を頂く。
夜中に目を覚ます。
あの母の白い足。空中に浮かんだ二本の白い足はもがくようにばたついている。
「やめろ、なにをする!」
山頭火は、娘遍路の首に掛かった腰紐を解いた。
そして、山頭火は郵便為替で届いた3円を娘に渡す。
山頭火は、その夜、一晩中、娘を抱いて温めてやった。
翌朝、山頭火は娘遍路に鉄鉢を与えた。娘の名はノブといい、松山の道後温泉近くに住むという。
袈裟は、飴売りの男にやる。
何かが吹っ切れた、晴れ晴れした山頭火の顔つきであった、として
わがいのちをはるもよろし 山頭火
山頭火、昭和14年11月4日に詠んだ俳句を紹介している。
山頭火は、松山で高橋一洵や藤岡政一の世話になり、一草庵に定住した。
一草庵では、たびたび「柿の会」が句会を開いた。
高浜虚子の定型俳句『ほトトギス』に抗し、山頭火は自由律俳句の隆盛に努めた。
ノブは新聞で、自分を助けてくれた坊さんが、山頭火であることを知って、たびたび
一草庵を訪れた。野菜やお菜を届け、洗濯物などを持ち帰った。
「わたしは、ノブさんに教えられた。捨てても捨てても、捨て切れないものがある。
わたしにとって、それは命ではない。句なのじゃ。俳句なのじゃ。」と山頭火はいう。
「捨ててこそ-山頭火遍路紀行-」は、「大正を生きた人々」13編の短編小説の一つです。
詳細は、
「阿波の歴史を小説にする会(林啓介)」088-689-1253へ。