今週の山頭火句

今週の山頭火句 旅のかきおき書きかへておく  山頭火

2011年12月14日水曜日

阿波の歴史小説「捨ててこそ-山頭火遍路紀行-」  小川公三さんより届く。

明日、12月15日は、「山頭火、一草庵入庵日」だ。
一草庵が一般公開され、山頭火の遺品・鉄鉢、キセルが陳列されます。
ご来庵あれ!

今日、徳島の小川さんから、阿波の歴史小説「捨ててこそ-山頭火遍路紀行」の本が寄贈された。
一草庵図書として、大切に保存します。

なかなか読み応えがあったので、紹介しておきます。
よく勉強されています。

   秋晴れひよいと四国へ渡つて来た  
 漂泊の自由律俳人種田山頭火(本名・正一)は、気軽に四国を訪れたと、冒頭の句を遍路日記に
 綴っているが、本当はそうではない。酒のせいで心臓が弱っているので、あと一年余りの命だか
 ら、したいことをして好きなように生きなさいと、広島の医師から宣告されていた。酒の業である。
  前に巡った四国巡礼は、母と弟の菩提を弔うためだったが、今回は自らの死に場所を求めての
 旅である。あの芭蕉や西行がそうであったように、日々を旅の梄かとし、旅に死ぬことを本望とし
 た。いわば捨身懸命の旅だった。
 で、始まる。
来松70周年記念・松山高浜の山頭火句碑
 
 実は、山頭火の日記は、2冊行方不明になっている。
 昭和14年9月27日~10月31日(四国遍路日記)
 昭和14年12月17日~昭和15年2月10日(松山日記其一)

 よって、山頭火の四国遍路参詣の道は、山頭火の書簡及び友人の記録に頼るしかない。

 この物語は、10月29日3番札所・金泉寺の木賃遍路宿の場面がクライマックスのようだ。
 NKHドラマ「何でこんまに淋しい風ふく」のフランキー堺のような山頭火を想像しながら読む。

 -わしもこの頃、いっぱしの世間師になってきたなあー
 飴売り夫婦に頼まれて、息子へのハガキを書いてやる。
 お礼の護摩水(酒)を頂く。
 夜中に目を覚ます。
 あの母の白い足。空中に浮かんだ二本の白い足はもがくようにばたついている。

 「やめろ、なにをする!」
 山頭火は、娘遍路の首に掛かった腰紐を解いた。
 そして、山頭火は郵便為替で届いた3円を娘に渡す。
 山頭火は、その夜、一晩中、娘を抱いて温めてやった。
 翌朝、山頭火は娘遍路に鉄鉢を与えた。娘の名はノブといい、松山の道後温泉近くに住むという。
 袈裟は、飴売りの男にやる。

 何かが吹っ切れた、晴れ晴れした山頭火の顔つきであった、として
    わがいのちをはるもよろし  山頭火 
  山頭火、昭和14年11月4日に詠んだ俳句を紹介している。

 山頭火は、松山で高橋一洵や藤岡政一の世話になり、一草庵に定住した。
 一草庵では、たびたび「柿の会」が句会を開いた。
 高浜虚子の定型俳句『ほトトギス』に抗し、山頭火は自由律俳句の隆盛に努めた。

 ノブは新聞で、自分を助けてくれた坊さんが、山頭火であることを知って、たびたび
 一草庵を訪れた。野菜やお菜を届け、洗濯物などを持ち帰った。
 「わたしは、ノブさんに教えられた。捨てても捨てても、捨て切れないものがある。
 わたしにとって、それは命ではない。句なのじゃ。俳句なのじゃ。」と山頭火はいう。


 一部、抜粋して紹介してみました。本が読みたくなったことでしょう。
 「捨ててこそ-山頭火遍路紀行-」は、「大正を生きた人々」13編の短編小説の一つです。
 詳細は、
 「阿波の歴史を小説にする会(林啓介)」088-689-1253へ。